一部の女たちの「腑に落ちない想い」を、北原みのりさんが鮮やかに代弁してくれたようなコラム。私がもし彼のパートナーだったら(無論あり得ませんけど)悲しいぞと感じる結婚報告だと思ったけど、それを120%良しとする方だからご結婚されたのだろうと無理くり自分を納得させていた。
コラムにはこうある。
『世界的なスーパースターとはいえ、フツーに「二人で幸せな家族をつくります。あたたかく見守ってください」くらいの軽さで良いはずなのに、そういう文言は「羽生結弦」の結婚報告には一切ない。(中略)「個人としての羽生結弦が結婚しても『羽生結弦』は永遠なのでご安心ください」という宣言にしか読めないのである』
そこには、日本のスポーツ独特の「負けられない戦い」の「重さ」も浮かぶ。
『もはや、「フィギュアスケートが好きだから滑っている」という伸びやかさや軽さは「羽生結弦」にはない。東北を背負い、ジャパンを背負い、「羽生結弦」というプロジェクトを背負う真剣。それはスポーツというより、アスリートとしての「羽生結弦」を別人格におくことで自分を守り続けた一人の人間の、儀式めいた何か、に参加させられているような気持ちになってくるのである』
羽生結弦の重さは、大なり小なり日本のトップアスリートが抱えるものではある。が、それを引退しても継続するケースは稀だろう。なぜならば、北原さんが表現した「重さ」が飛びぬけている。本人はもちろん、彼の周りの空気も重い。お休みして第二の人生を楽しんでという感じじゃない。
ただしアスリートとファンとしては究極の関係かもしれない。両者はある種共依存の関係だ。熱烈なファンはそのパフォーマンスに人生を賭け、それをアスリートは生きる動機づけにする。
羽生結弦推しでファンの熱量に応えてきたAERAでの掲載は話題を呼びそうだ。シンプルにこのトピックを書きたいという北原さんの意思を尊重したようにも感じるけど。